性を変える
街で「彼」に会っても、だれも「女」だとは疑うまい。
背丈こそ1メートル68と小柄だが、腕っ節の太さ、がに股(また)の歩き方、そして何より、ひげを生やした顔は、
まぎれもなく男のものだ。
声も太い。仕事は大工、好きなスボーツはボクシング。自分は「おれ」。
小ぶりながら残っている乳房と、あるべき生殖器がないことだけが、かすかに「女」の名残をとどめる。
頭の中は、ずっと「男」だった。
だから、完全な男でないことがたまらなく悲しい。
「彼」の名は、中原圭一(29)=通称=という。
最初に違和感を持ったのは、3歳ごろ。保育園のプールの時間だった。
裸になっての水遊び。ふと気が付くと、他の男の子とどこか違う。
「大きくなったら、きっと生えてくる」そう、思っていた。
親は、当然のように女の子として育てた。だが、スカートや人形には、見向きもしない。
「ミニカーが欲しい」「ロボットがいい」。そう言って騒ぐのである。学校は嫌いだった。
女として、扱われるからだ。放課後は、釣りや度胸試しをして遊んだ。
もちろん「男同士」で。女の子っぽい声も、嫌だった。
中学1年の時、意を決して、焼き鳥用の金ぐしをのどに突っ込んだ。
「鏡を見ながら、アーって声を出して声帯の位置を確認しながら、数回のどの奥をかいた」
夢中で痛みを感じなかったが、血たんが出た。2日目に望み適りハスキーな声が出た。
高校2年の時「人生最大の衝撃」が訪れた。初潮である。
かすかな希望が絶たれた。家族には隠し通したが、半年後に母に見つかった。
「大喜びされたけど、何で人の不幸を喜ぶのかって…」高校を出るころ、急に不安になった。
「このまま、女として生きて行くしかないのか」だが、解決策は浮かばなかった。
高校を出て、ガソリンスタンドに就職した。ところが、出社すると「スカートをはいて」。
「やめます」。その場で退社した。
その後も、印刷会社、運転手、駐車場の移動係、バーテン、配管工、大工、電器屋、内装屋、そして再び大工。
居心地が悪かったり、よりよい条件を求めたりして、職を渡り歩いた。
20歳をすぎたころ、男性から女性に性転換した人に出会った。漠然と、答えが見えてきた。
そして1992年7月。週刊誌に朗報が出た。
男性性器を交通事故などでなくした人に「再建術」を施す医師−「これだっ」その日のうちに、医師に電話をした。
中原の主治医の埼王医大教授、原科孝雄との出会いである。
「やりましょう。とりあえず、1年待って下さい」こうして男性ホルモンの注射と、精神科の診察が始まった。
1年のはずが、すでに5年近くが経過しようとしている。倫理的な問題が。、ゴーサインに待ったをかけているためだ。
「オレとすれば、待ち切れずに外国に行こうかと思った」 一刻も早く手術したい中原。
だが、日本で手術することが、人々の理解を深め、誤解や備見をなくす。そう思って、耐える。
女として生きることを望んだ母も「あなたが望んでいる通りにしてあげたい」と、折れた。
手術に向けての環境整備は、着々と進んでいる。名実ともに男になる日まで、あと一歩。
すべてが、うまくいったら「立ちションをしたい」中原のささやかな夢である。
<手術しかない>
体は男なのに心は「女」であったり、その逆であることを「性同一性障害」という。
環境ではなく、ホルモン異常による生来の障害だとの説が有力。
性転換手術により、頭に体を合わせるしか、根本的な治療法はない。
国内では倫理的な問題があり、性転換手術は行われていない。
埼玉医大のグループが、手術の準備を進めており、早ければ年内に第一段階の手術が行われる可能性がある。
1997/5/9
東京新聞
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